〜入金真綿を求めて〜 保原(福島県伊達市)へ行ってきました。|結城紬Stories vol.05

この記事は、小山高専の歴史専門の長峰氏が小山市地域協力隊の依頼を受け、小山市工業振興課 結城紬振興係のご協力のもと執筆。
『小山市民の半分が「結城紬って◯◯だよね」と話ができるようになる』ことを目標に、結城紬などについての小話を連載しています!

つむぐ〜 結城紬Stories 〜

入金真綿の生産地、福島県伊達市保原へ

突然ですが、保原ほばら(福島県伊達市)に行ってきました。なぜ保原?
結城紬について調べてみてはじめて知ったことなのですが、 結城紬の原料となる 真綿ま わ た入金いりきん真綿と呼ばれます)は保原で生産されているのです! 驚きました。というのも、じつは妻は福島出身で、長男は保原の病院で生まれたのです。前回の曽雌さんに引き続き、ただならぬ えにしを感じます。これはもう行くしかないな、ということで、(お墓参りも兼ねて)保原に行ってきました。


(「伊達とお蚕様の本場物語」 パンフレットより)
鬼怒川や阿武隈川といった河川が桑畑や養蚕を育んでいました。

*現在、小山市産のまゆ を使って 「繭から反物まで」を小山で作る取り組みがはじまっています。しかしそれは一部の話で、これからも結城紬を維持していくためには保原産の真綿が必要であることは変わらないとのことです。

「伊達市保原歴史文化資料館」 へ

お邪魔したのは、「伊達市保原歴史文化資料館」 (伊達市保原町大泉字宮脇265)です。保原総合公園のなかという、とても気持ちのいい場所にあります。じつはこの公園は長男が小さい頃に遊ばせていたところで、やはり不思議な縁を感じます。

ちょうど30 周年記念事業「伊達とお蚕様の本場物語」が開催されていて、展示をとても興味深く見学しました。

一通り見学したあと、学芸員の阿部俊夫さんにお話を伺いました。

学芸員 阿部俊夫さん

江戸時代のはじめ頃(後期という説もあります) 、おもに 蚕種さんしゅ(お蚕さまの卵)をつくる地域は信州(長野)、上州(群馬)、そして結城(茨城)でしたが、河川の洪水が続き養蚕ができなくなったため、蚕種業者は養蚕に最適な場所を求めて伊達地方に移ったそうです。

この話に関して、 「養蚕や織物業の歴史には伝承・口伝が多いのですが」 という阿部さんの説明はとても印象的でした。人々の生活に密接に関わっていたからこそ、そうした伝承が多く生まれ、語り継がれていったのでしょう。

伊達地方の蚕種製造がいかにさかんであったかを示すものを少し見ておきましょう(以下は「伊達とお蚕様の本場物語」パンフレットを参照しています) 。

  1. 「蚕種本場」。江戸時代中頃、信達しんたつ地方 (現福島市周辺にあたる 信夫しのぶ郡と伊達郡をあわせた地域)は蚕種製造で全国に名が知られるようになっていました。そして安永 2年(1773)、信達地方の村々は幕府に税を払って全国で唯一「蚕種本場」のブランドを名乗って独占販売することを許されます。すごいです。記念事業の「本場物語」はこのことを指しているのですね。
  2. 養蚕用温度計の発明。昔から日本では温度を調節しないで自然のままに養蚕を行っていましたが、伊達地方では火を使って部屋を暖める、寒い地域ならでは方法をはじめます。そして幕末の嘉永2 年(1849)、伊達地方の 梁川やながわ村の中村善右衛門という人が「蚕当計さんとうけい」とその解説書「蚕当計秘訣」を発表したのです。蚕当計には、養蚕日数とその適正温度が一目でわかるように表示されています。蚕当計は、勘と経験が頼りだった養蚕を多くの人にやりやすいものにしました。当時の最先端の技術だったのですね。
  3. KAKEDA。安政 6 年(1859)、日本の開港と同時に生糸の輸出がはじまります。とくに伊達地方の 掛田か け だ村で考案された「掛田折り返し糸」は世界的に人気となります。明治時代に見つかったアメリカの地図の日本には、 TOKYO (東京)、 SAPPORO (札幌)の他に、KAKEDA(掛田)の地名が書かれていたそうです。

じつに興味深いエピソードです。まだまだあるのですが、興味のある方はぜひ現地で。福島いいとこですよ。これから伊達地方は桃の季節です🍑

阿部さんが紹介してくださった史資料のなかでとりわけおもしろかったのは、伊達地方の梁川出身の中井閑民が出版した錦絵『新版奥州本場養蚕手引 寿語禄 すごろく』(慶応 3 年[1867]) です。これについては阿部さんが文章(「中井閑民と伊達の養蚕文化~錦絵『新版奥州本場 養蚕手引寿語禄』を読む」)を書かれており、それに拠りながら紹介します。

双六 すごろくは「ふり出し」から「上り」まで 6 段 36 マス目で構成され、各マス目には「奥州本場」の養蚕業が描かれています。

錦絵『新版奥州本場養蚕手引 寿語禄すごろく

「ふり出し」は最下段中央です。蚕種商人が 蚕種紙さんしゅし (蚕種が産み付けられた紙)を吟味 しています。その右手後方には、「かいこたねとり」(雌蛾が蚕種紙に卵が産み付ける)が描かれています。

「ふり出し」

「はたごや」の場面も興味深いです。「奥州本場」から各地に蚕種紙を運ぶ商人が旅籠屋 に到着した様子が描かれています。右手の看板には「養蚕講」と書かれています。講(組合)の仲間である商人にはこうして安全な宿泊が保障されていたのですね。「奥州本場」の蚕種紙がこうして各地に運ばれていったことが伝わってきます。

「はたごや」

さまざまな行程が描かれたあと、最後の「上り」は天皇への繭と絹織物の献上の場面となっています。「奥州本場」としての養蚕に対する「誇り」を物語る「上り」です。

「上り」

この錦絵の養蚕双六はどのような役割を担っていたのでしょうか。阿部さんは次のように考察しています。

  1. 養蚕は伊達地方の暮らしに不可欠であり、双六は村の子供たちにこれから従事する養蚕作業の手順を学習させる目的があった。この養蚕双六は養蚕農家に配布されたと考えられる。
  2. 当時すでに外国との貿易がはじまっており、外国人の「ジャポニズム」(日本趣味)嗜好にあわせて錦絵の養蚕双六は出版されただろう。錦絵の双六は外国商人に蚕種を売り込むための一種の広告でもあった。

「なんて味わい深ぇ双六だない」(なんて味わい深い双六だねえ)。この双六は、たんに娯楽用のものではなく、伊達地方における養蚕業そのものを生き生きと物語る貴重な史料であることがよくわかります。
*「なんて味わい深ぇ双六だない」:ChatGPT に伊達地方の方言を聞いてみました。

さいごに

今回保原を訪れてみて、伊達地方の養蚕文化の豊かさに感じ入りました。残念ながら、伊達地方に限らず日本の養蚕は衰退しつつあるわけですが、こうしてその歴史文化を語り継ぐ場があるのは素晴らしいことだと思います。

そして、今回の目的である結城紬と保原の真綿の関係ですが、それはじつに江戸時代以来 300 年以上の長い「お付き合い」があることがわかります。普段何気なく小山で暮らしているなかでは、結城紬の歴史もそうですが、こうした小山/結城紬と福島県の保原の関係はほとんど見えてきません。しかし、歴史を眺めていると、ときに意外な面で意外な場所とつながり、いままで見えていなかったものが像を結ぶ瞬間があります。私にとって、今回の小山 /結城紬と保原のつながりの「発見」はまさにそうでした。やはり歴史はおもしろいですね。

謝辞:取材にご協力くださった伊達市保原歴史文化資料館、学芸員の阿部俊夫さんに心より感謝申し上げます。そして、今回の取材を思い立たせてくれた不思議な縁にも。

参考資料
伊達市保原歴史文化資料館会館 30 周年記念事業「伊達とお蚕様の本場物語」パンフレット 阿部俊夫「中井閑民と伊達の養蚕文化~錦絵『新版奥州本場養蚕手引寿語禄』を読む」『福 島の進路』(2019.5), 65-70.
『新版奥州本場養蚕手引寿語禄』東京農工大学科学博物館デジタルアーカイブ蚕糸学術コ レ ク シ ョ ン ( https://archives.tuat-museum.org/s/da/item-link/2018-u0762#?c=&m=&s=&cv=&xywh=-701%2C-9%2C6079%2C3111)(2026 年 4 月 7 日最終閲覧)

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