この記事は、小山高専の歴史専門の長峰氏が小山市地域協力隊の依頼を受け、小山市工業振興課 結城紬振興係のご協力のもと執筆。
『小山市民の半分が「結城紬って◯◯だよね」と話ができるようになる』ことを目標に、結城紬などについての小話を連載しています!
- プロローグ:目標は「小山市民の半分が〇〇できること」
- vol.01:伝統を「普段着」る
- vol.02:桑・絹ラプソディ(前編)← いまここ

前回は江戸時代の庶民の暮らしから興味深い話を紹介しましたが、今回は小山市にある「絹地区」「桑地区」そして、結城市の境界に注目して歴史を紐解いていきます。
小山に引っ越して来てすぐ、「桑」「絹」という地名がすごく気になりました。
「なんてストレートな地名」と感動さえ覚えました。
住むうちにだんだんわかってきました。
- 県こそ違いますが、小山市(栃木県)と結城市(茨城県)はとても密接に結びついていること(小山高専には結城から来ている学生さんたちがたくさんいます)
- 古くは小山氏と結城氏は親族関係にあったこと
- 結城紬の問屋は結城市にありますが生産地は結城と絹地区(小山市)にまたがっていること。
などなど……。
「桑」「絹」という地名は、まさに盛んであった養蚕(蚕さんのえさになる桑)やそこから織られる紬(絹)を表しているんですね。なんとも味わい深い地名です。
「桑」は当時この地区で盛んに行われていた扶桑教にちなむとも言われています。
▽おやま百景 桑地区地図と桑地区地図より


ときどき自転車やランニングで小山市東部(絹地区あたり)を走るのですが、気がつくと結城に入っていることがあり、不思議な気持ちになります。
いったい何が小山と結城を分けたのか。分かれてなお、なぜここまで分かちがたい関係なのか(新参者には一体化しているようにさえ映ります)。
行政区分というのは突き詰めれば人工的な線引きですし、とくに県境は近現代の産物です。かつて、そうした境界線は流動的で、あいまいなところもあったと思います。

どのような歴史が作用して現在のような状況になったのでしょう? 今回は、小山(おもに絹地区)と結城の切っても切れない関係を「チラ見」します。
単純にさかのぼれば、古代の行政区分において小山は下野国に、結城は下総国(常陸国ではない!)に属したので、そもそも国が違うということになります。
しかし、中世の小山には「政光くん」でお馴染みの小山政光を初代とする小山氏がいましたが、その息子朝光が結城を領して結城氏となりました(1183年。1200年説もあります)。

そしてのちに「小山氏の乱」(1380–82年)により小山氏嫡流が途絶えると、結城一族が「小山」を継承することで小山氏は再興されます。小山氏と結城氏は親族関係にあったのですね。
廃藩置県時、下総に属した結城は千葉県になりますが(1873/明治6年)、県境が利根川となったことにより茨城県に移動しました(1875/明治8年)。
結城基光の息子泰朝(あるいは満泰)が「小山」氏を継承しました。小山氏と結城氏の歴史も大変おもしろいです!入口として、『まんが郷土史 小山の歴史 中世編』をおすすめします。
ところがところが、大変興味深いことに、いまの絹地区南部(高椅郷など)は下総国結城郡に属していたのです(下総国と下野国の間を行ったり来たりしたそうですが)。

そのこと(いまの絹地区南部(高椅郷など)は下総国結城郡に属していたこと)をよく示しているのが、高椅神社(「禁鯉の宮」としても知られます)です。

高椅神社は「結城第一の社」として結城氏の歴代当主の厚い保護を受けました。またその楼門は、のち江戸時代に結城城主となった水野氏の寄進による再建(1754–70年)であることが説明に書かれています。

お近くをお通りの際はぜひ。
- 住所:〒323-0154 栃木県小山市高椅702
▽MAP
*ちなみに、天保の改革で有名な水野忠邦の墓は結城にあります。
「結城紬」という名前の初出は江戸時代(1638年)だそうですが、このあたりでは古くから織物が盛んだったようで、中世には「常陸紬」という名の織物が武士らに好まれていたようです。江戸時代には「結城紬」の名が知られるようになり、「結城紬、下総結城より出づ、いかにもつよし」とか、「常州結城より出づるを上となし、信州これに次ぐ」などと紹介されています。なかなか評判上々だったようですね。
では、いつ絹地区南部は栃木県側(下野国)に入ったのでしょう?
いろいろ見ていきますと、江戸時代の元禄9(1696)年に絹地区南部(高椅、延島、福良、中島、中河原)は下総結城郡から下野国都賀郡に編入されたとあります。ただ、その理由がはっきりしません。もう少し調べたいと思いますが、どなたかご存じの方がいらっしゃればぜひ教えてください。
元禄9(1696)年というのは幕府が日光街道の助郷制度(街道筋の宿駅維持のために近隣の村々から人馬を補充する制度)を制度化した年で、あわせて関連諸地方の再編成が行われました。元禄9年の助郷帳を見ると、たしかにこれらの村が「下野国都賀郡」として登録されています。こうした助郷制度にともなう地方の再編成が絹地区南部の所属変更の背景にあったのかもしれません。
その後廃藩置県を迎え、栃木県のなかに桑村・絹村が成立します(1889/明治22年)。そしていよいよ戦後、その桑村・絹村をゆるがす大事件がおこるのです。(「桑・絹ラプソディ 後編」へ続く)
*参考文献は後編にあります。
- プロローグ:目標は「小山市民の半分が〇〇できること」
- vol.01:伝統を「普段着」る
- vol.02:桑・絹ラプソディ(前編)← いまここ
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