曽雌(そし)さんのこと 〜 結城紬がより身近だった昔の暮らしをインタビュー 〜 |結城紬Stories vol.04

この記事は、小山高専の歴史専門の長峰氏が小山市地域協力隊の依頼を受け、小山市工業振興課 結城紬振興係のご協力のもと執筆。
『小山市民の半分が「結城紬って◯◯だよね」と話ができるようになる』ことを目標に、結城紬などについての小話を連載しています!

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曽雌(そし)さんとの出会いと苗字の由来

小山に引っ越してまもなく、子供が通うことになった体操教室(白鴎大学のMöweメーヴェ体操)で曽雌裕康そしひろやすさんという方に出会いました。とてもいい方で、体操教室を卒業したいまでもおつきあいが続いています。珍しい名字だと思ったら、「絹地区に多いんですよ」とのこと。

Möweメーヴェ体操教室

そのときは「へー」と思った程度でした。しかし、前回紹介した落合住好さんの『小山市の村の歴史 桑地区編・絹地区編』を読んでいるときに、図書館なのに思わず「うお!」と声が出ました。やな地区に多い曽雌と言う名字の由来」やなは絹地区の一部)という項目があったからです。

簡単にまとめると以下のようになります。

ときは飛鳥時代。日本にやってきた渡来人のなかに曾という名の機織り技術をもった一族がいました。大王/天皇(推古天皇か)は一族を優遇し、一族の長が女性であったため、「曽雌」と言う名を与えます。その後、曽雌一族は都を離れて各地に移動し、その一派が結城にたどり着きます。一族は梁の地に住むようになり、結城紬を織るようになりました。

興奮しましたね。その日のうちに曽雌さんに連絡しました。

そうしたら、絹地区のご実家では結城紬は子供の頃から身近にあったとのこと。

結城紬や絹地区を調べはじめていた私は、なにやらただならぬえにしを感じました。こうなったら曽雌さんのご実家にインタヴューさせていただくしかありません。

というわけで、今回は曽雌さんにお聞きした「絹地区の結城紬あれこれ」です。曽雌さんのお父さん(76)と叔父さん(79)に答えていただきました。

曽雌(そし)さんへのインタビュー 結城紬との関わりや生活について

絹地区は(本場)結城紬との関わりが深いと聞いています。曽雌家は結城紬とどのように関わってきましたか?

曽雌家:記憶は定かではありませんが、物心ついた頃にはすでに家では養蚕をしていました。米や野菜の他に桑を育てていました。母は機織りもしていて、農業が落ち着いている冬場に、良く機織りをしていました。
祖父の代は農業だけで生活していたようですが、父の代になって養蚕を始めたのだと思います。絹地区では養蚕をしている農家が多く、周囲の影響もあって始めたのではないでしょうか。家では蚕のことを「お蚕様」と呼んでいました。

おやま本場結城紬クラフト館の展示より

また、結城に住んでいた親戚も結城紬の仕事をしていて、絣くくりの作業をしていました。糸紡ぎの職人や機織りの職人など5~6人ほどの職人と一緒に仕事をしていたと聞いています。

子供の頃は、家の中で蚕を育ていました。母屋の八畳二間の部屋でも蚕を飼っていました。寝る部屋が隣だったので、蚕が一斉に桑の葉を食べる音が聞こえてきました。その音は雨が「ザー」と降る音のようで、うるさくて寝苦しい夜もあったことを覚えています。その後、「蚕室」(さんしつ)という二階建ての小屋ができ、一階で蚕を育て、二階で繭を作らせていました。子供の頃、繭を作るための「回転まぶし」を二階へ運ぶ作業を手伝ったがとても大変でした。

おやま本場結城紬クラフト館の展示より

蚕の餌となる桑の葉は一枚一枚摘み取る必要があり、母はそれがとても早くて上手でした。一枚一枚摘むのは大変な作業でしたが、私(次男)が手伝う頃には剪定した桑の葉を与える方法が主流になっていたため、昔ほどの大変さではありませんでした。

当時は現在のカネボウ化粧品の前身となる会社が絹紡績事業をしており、会社の社員が蚕の稚蚕(赤ちゃん蚕)を家まで持ってきました。それを家で育て、繭から生糸を取り、それを一度業者に渡します。この作業を一年に三~四回繰り返していました。その後、機織り用の糸を持ってきてもらい、母が機織りをしていました。母が亡くなった後も、昭和の終わり頃までは続けていたと思います。

結城紬あるいは結城紬に関わるものが身近にありますか?あれば教えてください。

曽雌家:私が子どもの頃は、家の中に機織り機があり、母が毎日のように織っていました。結城紬の機織りでは地機(じばた)という機織り機を使い、織る人が腰に「腰当て」と呼ばれる帯のようなものを巻き付けて、織っていた。これを巻くのも外すのも大変で、一度織り始めると簡単にはやめられませんでした。

機織りをしている時に家にお客さんが来ると、音を止めるために織るのをやめて、居留守を使う人も多かったと聞いています。

それくらい機織りは集中力と手間のかかる仕事でした。

結城紬や曽雌という名字について思い入れやエピソード、おもしろい歴史があれば教えてください。

曽雌家:曽雌という名字については、結城の民話の中に曽雌という名前が出てくることは知っていますが、詳しいことまでは分かりません。ただ、祖父からは、加賀→山梨→栃木というふうに辿って来たという事、山梨県には曽雌という地名があると聞いたことがあり、何かしらの関係があるのではないかと思っています。

曽雌姓の由来にもなっているように、結城紬の生産の現場では昔から女性が活躍してきましたか?

曽雌家:絹地区の中島地域は特に機織りが盛んな地域で、女性は中学校を卒業するとすぐに機織りの仕事を始めることが多かったそうです。そのため、女の子が生まれるととても喜ばれたという話も聞いています。

昔と今で、絹地区における結城紬で変わったことはありますか?

曽雌家:昔は養蚕をしている農家が多く、地域の生活の中に結城紬の仕事がありました。しかし、時代が変わるにつれて結城紬が売れにくくなり、養蚕をする農家もだんだん少なくなっていったと思います。

これからの絹地区と結城紬について思うことや願うことがあれば教えてください。

曽雌家:昔のように地域全体で関わる形は少なくなりましたが、こうした文化や歴史がこれからも受け継がれていってほしいと思います。

最後に、曽雌家にとって結城紬とはなんですか?

曽雌家:私にとって結城紬は、子どもの頃から身近にあった生活の一部であり、家族の仕事でもありました。桑畑や養蚕、機織りの音など、当時の暮らしの記憶と結びついています。そうした思い出も含めて、結城紬は自分のふるさとの文化の一つだと思います。

インタビューを終えて

実際に結城紬に関わった人たちにしか語れない、貴重な「時代の声」だと思います。絹地区の生活と結城紬がともにあったことがよく伝わってきます。

こんな文章を書きながら恥ずかしいのですが、結城紬自体は自分の日常生活のなかではなかなか触れるものではないです。ですが、結城紬という伝統文化は小山に住む者として大事にしていきたいと思っています。同時に、今回のインタビューを通して、結城紬とともにあった小山・結城の日常の営み、そこあった人々の心象風景に思いを馳せました。こうした結城紬に関わった人たちの歴史を語り継いでいくことも大事だなと強く思います。

インタビューに快く応じてくださった曽雌家のみなさんに心から感謝いたします。

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3児の母で元SEのブロガー。栃木県小山市を中心に、栃木県のグルメ、観光や遊び・イベント情報を発信する 月間50万PVの地域ブログ「とちぎびより」を運営。Instagramのフォロワー4万人以上。話題のモノや新しいコトやスポット・旅やキャンプが好き。ブログを通して、「きっかけ」を届けるのを目標に活動!